むかーしむかし、珍山荘というボロアパートに、便所の神様が住んでおられたんだそうな。
珍山荘は築五十年にはなろうという傾きかけたアパートで、二階の共同トイレに便所の神様は住んでおられた。
共同トイレは、今時珍しい和式で、大家のばあさんがロクに掃除もせんかったので、汚れ放題だったそうな。
その珍山荘に一人の若者が住んでおった。若者の名前は草薙(くさなぎ)亘(わたる)。
地方の高校を卒業してから、派遣会社を転々としているうちに、最近になって勤めていた工場が海外へ移転するとかで、クビになったんだそう。
その日亘が、いつものように求人誌を片手に共同トイレに入っていると、ふとした拍子に右手に持っていた赤ペンを、便ツボの中に取り落としてしまった。
珍山荘の共同トイレは前にも言った通り、
和式でしかも汲み取り式便所。
「ゲッ! 最悪~!?」
と亘は思ったが、なにせ貧しくて、代えの赤ペン一つも買えん状態だった。
幸い下を見ると、住人たちが毎日ひねり出したウンチが、天まで届けの勢いで迫っている。
手を伸ばせば、赤ペンの一つくらい拾うことは簡単そうに見えた。
だが……亘は迷った。
……大いに迷った。
迷って迷って、悩みぬいた末に、ついに赤ペンが沈み込む前に、便器の中に「エイッ!」と手を突っ込んで、赤ペンを拾い上げたのだ。
つづく