今朝、夫が仕事へ行くために、玄関から出ようとしていた。
私たちは、もう二か月近く、口を利いていない。
お互い顔も合わせない。
だから私は朝起きても、彼が仕事へ行くまで、二階の自分の部屋で
じっとしているほかはない。
朝食を作ったり、モーニングコーヒーを飲んだりすることも出来ない。
ひたすら我慢だ。
そんな訳で、もうそろそろ出かけたかなと思い、階段を降りると、
ちょうど夫が出勤するところだった。
中年になった夫の髪は真っ白だった。
夫は若い頃から白髪が多く、
同窓会があると、友達からはよくからかわれていたものだが、
今は完全なるロマンスグレーになってしまった。
こんなことを言うのはなんだけど、夫はイケメンだ。
若い頃からイケメンで(かといってモテる訳ではなく、
モテないイケメン。夫もそのひとり)、
結婚する時に、私は友達に、「パモンちゃんは、面食いね~!」と
呆れられたものだった。
そう、私は面食いだったのかもしれない。
自分の顔面はさておいて、相手に求める偏差値は高かったのかもしれない。
けれど、若い頃の私には、男を見る基準がそれしかなかったのだ。
見た目で、いい人か悪い人かを計っていたのだ。
そんな若かった自分を、今は責めるべくもないけれど……。
けれど、もう少しあの頃の私に知恵があればなぁとは、思う事だ。
そんな訳で、夫は白髪になったことで、逆にそのイケメンぶりが増してしまった。
二人で道を歩いていても、私の方はまったく振り向かれないけれど、
彼の顔を見て、驚いて二度見する人はよくいるのだ。
特に男性が多いけれど。
男も驚くほどのイケメンってことか……。
そのイケメン夫の髪のおくれ毛が、
柔らかく巻き毛になり、首にかかっていて、
それを見ると、私はなんだか切なくなってしまった。
それは私がよく見慣れたものだったから。
その穏やかさは、彼の優しさを表わしているようだったから。
そんな彼に、私はこれから〝別れる〟ことを切り出さなければならないのだ。
そう考えると、とても気分が重くなり、萎えそうになった。
父の元を離れて、関東へ戻った私には再び日常が待っていた。
けれど夫は仕事が忙しく、連日残業で帰って来ず、
私は私で、田舎でする筈だった仕事にまったく手をつけられずにいたので、
それを消化しなければならなかった。
私は、田舎へ帰る前に、夫とはもう無理ではないかと感じていた。
なぜなら、その頃の夫は、もう私の言うことなど全く聞く耳を持たずに、
私が何か話しかけようとすると、それに覆いかぶせるように大声を出し、
私の言葉を封じることが多くなっていたからだ。
それは単に「うるさい!」とか「お前の話は聞きたくない」、
「お前の言葉には意味がない」ということだったのかも知れないが、
けれど、私はそんな彼の態度に傷ついていた。
もしかすると、彼の中には、「冗談だよ」というニュアンスも
あったのかもしれないが、何度も同じことをされると、
私はだんだんと冗談として受け取れなくなっていったのだ。
だから、弟のお嫁さんが三ヶ月、留守にする間、
父の面倒をみて欲しいと言われた時には、渡りに船だと思った。
少し夫とは距離を置き、これからの事を考えてみたいと思ったのだ。
ところが、私が到着したその夜から父の狭心症の発作がおき、
一時は危篤状態で、なにもかもが慌ただしく過ぎて、
結局、ひと月も経たないうちにお嫁さんが帰ってきてしまい、
行き場を無くした私はまた自宅へ戻らざる負えなかった。
けれど、三途の川の一歩手前まで行った父はすっかり気が弱くなり、
孫である私の息子に会いたがるので、
「それじゃあ、お盆になったらケンを連れてまた来るから」と約束してきたのだった。
つづく