こんにちは。
パモン堂です。
前回の続きです。
両親が真夜中に、プロレスのように、
くんずほぐれつしているのを見て、
子どもが健やかに育つ訳はありません。
徐々に息子の体調もおかしくなってしまいました。
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そんな生活が続いていくうちに、野沢家では誰もが、段々と朝が起きられなくなってきた。
リョーヘイが起きられないのは当たり前だが、ナナコも目が覚めると、朝七時半を過ぎているということがよくあった。
子どもたちは登校班を作って、一列に並んで学校へ行く。
その集合時間が、七時四十五分で、ナナコは慌てて傍らのツトムを起こし、無理矢理ランドセルを背負わせて送り出すのだった。
寝ぼけ眼のツトムが恨めしそうな顔で、ナナコの方を振り返り振り返り歩いていくのを、心の中で申し訳なく思いながら見送った。
無理もない。
毎晩、夜になると、父親が大声を出しては暴れるのだから……。寝不足もいいとこだ。
徐々にツトムは学校へ行くのを渋るようになってきた。
朝になると「お腹が痛い」などと訴える。
だが、ナナコはツトムを休ませることはしなかった。
ツトムを休ませると、だらしなく寝入っているリョーヘイの姿を目に焼き付けさせることになるし、それでなくとも、カーテンも開けずに暗い部屋の中で、生きているのか死んでいるのかも分からないような状態の父親と、二人っきりにさせることは、どうしてもできない事だった。
ツトムを送り出すと、ナナコはその場にへたり込む。
ナナコ自身、慢性的な寝不足だった。
私だって、休みたいのよ―、とナナコは思った。
だが、ナナコもまた休めなかった。
何故なら、休むと嫌でもこの重たい空気の中で、リョーヘイと二人っきりで取り残されるからだ。
まるでこの家の主(ぬし)のような、置物のような、大きな物体と二人取り残され、その存在をいつも感じていなければならないのは、嫌だった。
だから、ナナコは、「エイヤ!」と自分に気合いを入れて、仕事に出掛けた。この時ほど、仕事と言うものを有り難く思ったことはなかった。
「にゃん太を探して」より
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結局、息子は小学校の間は、この「お腹が痛い」を繰り返し、
休みがちに・・・。
中学に入ると、二年生のころから、不登校になり、
卒業式は、校長室に呼ばれ、校長室卒業式を味わいました。
私たちの生活は、たった一人の〝モンスター〟によって破壊されたのです。
高校はなんとか出席日数ギリギリで卒業し、
三年浪人したのち、やっと、滑り止めで入った大学へ入学。
大学も出席日数ギリギリで卒業。
その間、一年休学と・・・
母親としては、もう、考えると頭が痛くなるような歳月でした。
それもこれも、あの時の経験が尾を引いてることは確かな事です。
息子には申し訳なかったとは思うのですが、あの当時の私は、
どうすることもできなかった・・・。
ただただ、目の前に起きることに対処するので精一杯で・・・。
なので、私は、〝薬〟に対するアレルギーがあるのです。
〝薬〟は、使い方を間違えると大変なことになる、
だから、安易に手を出してはいけないと考えています。
あの時、単なるアルコールの問題が、抗うつ剤を処方されることで、
大問題になってしまった。
それもこれも、ひとえに、精神の病に果たして〝薬〟は必要だったのか?
もっとほかのやり方はなかったのか・・・?
とは、今でも疑問に思う事です。
しかし・・・
実は、そんな〝薬〟嫌いの私の息子が選んだ大学は、
薬学部(本当は医学部を目指していたけれど、成績が足りず、
行けませんでした)。
皮肉なもんですね。
息子は、何かあるとすぐに〝薬〟を頼ります。
薬大好き。
痛みや苦しみを我慢するほど、馬鹿らしいことはないと言います。
私は祖母からも、「絶対に薬に頼る生活をしちゃならん!薬は最後に頼るもの」ときつく言われて育てられたので、なるだけ薬を使わないように生きてきたというのに・・・。
その私の息子が、薬学かよ・・・とは、最初聞いた時は、脱力したものです。
確かに、この教えを守って、ぜんそくの息子にも薬を使わせなかったことが、
彼の反発になったようです。
ぜんそくで苦しい虫の息から救ってくれたのが、〝薬〟だったからです。
そんな息子は、この春から病院へ勤務します。
今夜は、彼のための就職祝い。
三人で食事をする予定です。
いろいろあった子育て期間。
でも、これでようやく、私の長い、長い、子育ても終わりになったようです。
つづく