異変はその夜に起こった。
夜中に、ナナコがリョーヘイとの間にツトムを寝かせ、三人で川の字になって寝ていた時だ。突如上から、ずしんずしんという音が降ってきたのだ。寝ぼけ眼で起き出したナナコは、やはり同じようにどんよりした眼差しのリョーヘイに向かって、
「何? 何の音?」と聞いた。
その音はどうやら二階の新住人の足音のようだった。部屋の隅から入り口に向かって、ずしんずしんと歩いて行く音が聞こえてきた。その度に天井が振動で細かく震えた。
「……」
ナナコは唖然とした。今までは、こんな足音は聞こえて来なかった。それなのに、若い男性が住み始めたというだけでこんな物音がするようになるのか……。
男性は身体の重心の掛け方が違うのか、それとも若くてまだ動きが粗雑だからなのか、それとも筋肉が一杯詰まっているからなのか……分からないが、ともかくナナコたち階下の住人は、その日から、嫌でもこの足音に悩まされることになるのだった。
リョーヘイが何も言わないので、ナナコも仕方なくまた布団の中へ潜っていった。だが、天井から絶えず漏れ出てくる人の気配に、ナナコは暗澹たる気持ちになるのだった。
夫のリョーヘイは、結婚当初から、夜になると眠れないと訴えていた。二人は同じ職場の同僚だった。
短大を卒業してそのまま都会に就職してしまったナナコと大学をようやっと卒業して就職をしたリョーヘイとは同じ年だが、ナナコの方が先輩だった。
仕事は中堅どころの映像制作会社だった。事務員をしていたナナコは、リョーヘイと結婚すると同時に会社を辞めた。未練はなかった。むしろせいせいしていた。ナナコにはキャリアウーマンというものへの憧れなど全くなく、むしろこれから毎日のんびり起きて、日がな一日ゆっくりと過ごせることへの幸せを感じていた。
ナナコは、毎日満員電車に乗ったり、代わり映えのしない事務の仕事に、ほとほと嫌気がさしていたのだ。
ほどなくしてツトムを妊娠したナナコは、結局は、すぐに子育てという終わりのない仕事に追われることになるのだが……。
つづく