ナナコは声にならない叫び声をあげた。
止めてーッ、止めてよッ。
そうして、リョーヘイの身体にのし掛かった。自分の体重で夫を制しようとしたのだ。だが、リョーヘイはナナコに手足の動きを押さえつけられると、今度は突如、叫び出したのだ。
「バカヤローッ! 俺を誰だと思っているんだッ! ふざけんな、テメエ、このヤロー! ぶっ殺すぞッ」
「―!!」
あまりのことにナナコは青くなってしまった。こんなリョーヘイを今まで見たことがなかった。ナナコの唇はひとりでにわなわなと震え出していた。
それはナナコにと言うよりも、明らかに二階の住人に向かって発せられた言葉だったが、時間はもうすでに深夜を回っており、二階の住人だって寝入っている時間帯だった。それが証拠に物音一つしないではないか。
どうか階上の人が起きてきませんように―ナナコは祈るような気持ちで、リョーヘイの口を押さえた。
しばらくもがいていたリョーヘイだったが、やがて力尽きたのか、急に静かになった。ナナコはホッとして全身の力を抜いた。身体のあちこちから湯気が出てくるようだった。しばらく見ていると、リョーヘイは目を瞑り寝入ったようだった。口を軽く開け、鼾が聞こえ始めた。
「……」
ようやくリョーヘイの身体から身を起こしたナナコは、二人の間に寝ていたツトムを跨ぐと、そのまま自分の布団へと転がりこんだ。
もうヘトヘトで力が出なかった。自分の布団の中で、小さなため息をつくと、今起きたことは何なのか、と頭をめぐらし始めた。一体何が起きているのか、ナナコにはさっぱり見当もつかなかった。
不安な面持ちで布団の中にじっとしていると、隣の掛け布団がもぞもぞと動き出し、そしてもう我慢ならないという風に、ツトムの顔がヒョコッと現れた。
「ねぇ、お母さん、何が起きたの?」
「……」
その問いに答うるべきものを、ナナコは持ち合わせていなかった。
何が起きたかって―?
そんなのこっちが聞きたいよッ、そう叫び出したい気分だった。
「分からない……。でも、もう大丈夫だから、早く寝なさい」
そう言うと、ナナコは、ツトムの頭を撫でた。そうして、まだ何か言いたそうにしているツトムの頭から布団を被せると、「大丈夫だから、大丈夫」そう言いながら、布団の上からトントンと背中を叩いた。
それはまるで自分自身に言い聞かせているようだった。
大丈夫、大丈夫、きっと調子が悪かっただけだわ。今夜のことは、何かの間違いだわ。明日になれば、きっと―。
胸に渦巻く不安をかき消すように、ナナコはそういい続けた。
つづく