ある夜、あまりにも酷く暴れたので、とうとう我慢できずにナナコは初めて救急車を呼んだ。震える指でプッシュボタンを押すと、深夜にも関わらず電話口からは落ち着いたきびきびとした声が聞こえてきた。
「はい、一一九です。火事ですか? 救急ですか?」その声を聞くと、ナナコはホッとした。
「すみません、夫が、お酒を飲んで暴れているんです。こういう時、病院とか連れて行って貰うことは出来ますでしょうか」
「お酒を飲んで、暴れているんですね」
「はい」
「奥様ですか? 大丈夫ですか? お怪我などされていませんか?」
その優しい言葉にナナコは思わずほろっとした。今まで誰がこんな風にナナコの事を気遣ってくれただろうか。
「いいえ、今のところは……。でも、酷くて、なんとかならないものでしょうか?」
「そうですか。何軒か病院を当ってみましょうね。ご住所はどちらですか?」
呆気なく解決しそうになったので、ナナコは拍子抜けした。なんだ、もっと早くに電話するんだった、そう思った時、リョーヘイの鋭い声が飛んできた。
「どこに電話してんだよッ」
振り向く間もなく、大きな手が伸びてきて、受話器を取り上げ電話を切ってしまった。
「あッ!」と、ナナコは驚いてリョーヘイを見た。
意識がないように見えるのに、こんなことだけは分かるんだと、ナナコは呆れた。
「あんたがあんまり暴れるから、今、救急車を呼んだのよッ! 今日はこれから病院へ行って、お酒を抜いてもらいなさいッ」
ナナコがそう怒鳴ると、リョーヘイは急に大人しくなった。そして、
「俺、もう寝る」
そう言うと、静かに布団の中に入っていった。
「……」
ナナコは唖然とした。怒るよりも呆れてしまった。そして、この人の中にもまだ、他人に知られると恥ずかしいなんていう気持ちが残っていたんだと思った。
しばらくナナコは、リョーヘイを見下ろしながら、電話の側から離れなかった。もしまた起き出して暴れたら、もう一度電話をするつもりだった。
だが、ほどなくしてリョーヘイの鼾が聞こえてきたので、ようやく肩の力を抜くことができた。
自分の布団に入ってからも眠れずに、ナナコは暗闇の中でじっとして今夜のことを反芻していた。
優しい救急隊員の声。リョーヘイの態度の変化。
一筋の光が見えてきた気がした。
これからは、何かあれば、救急車に助けを求めよう。そうして一晩、病院へ連れて行ってもらおう。そう決心するのだった。
つづく
洗えるマスク