その頃には、夜だけでなく、昼間でも猛々しい雰囲気をリョーヘイは纏い始めていた。
ある日、「ただいま」と言って帰ってきたリョーヘイの唇から血が出ていた。
「お帰り―!?」と振り向いたナナコは驚いて、「どうしたの? それ」と尋ねた。
「え? ああ、これ」とリョーヘイはナナコの視線をかわす様に下を向き、「喧嘩した」とポツリと答えた。
「ええッ!?」ナナコは仰天した。
喧嘩だなんて、一体誰と? と追求するナナコに、リョーヘイは、「車が歩道に止めてあったから、蹴飛ばしてやったんだ。すると持ち主が出てきて、喧嘩になった」と面倒くさそうに言った。
ナナコは呆れた。
「それで、それでどうしたの?」堰を切ったように問うナナコに、
「当然、向こうが悪いんだから、怒鳴りつけてやったよ。そうしたら、相手が殴ってきたから、殴り返してやったんだ。それだけさ」と肩をすくめた。
「殴ったって……」とナナコは絶句した。
夫は今までそんなことをする人じゃなかったのに……と、ナナコは青くなってしまった。
どうしよう……!? 夫が別人になってしまった!! どうしよう……!!
しかしリョーヘイは、そんなナナコの不安な気持ちなど全く意に介さずに、
「そうしたら、通りかがりの人が、“まあ、まあ、まあ”って言って止めにはいってくれたんだよ。だから“気をつけろ”って言って、それでお終いになったけど。
けれど、世の中には奇特な人がいるもんだね。俺だったら、そんな他人の喧嘩なんか無視するけどね」と表情も変えずにそう言った。
「……」
何も答えることが出来ずに沈黙しているナナコに、まったくいい人だ、とつぶやくリョーヘイの声だけが部屋に響いた。
しばらく黙っていたリョーヘイだったが、やがてポツリとつぶやいた。
「俺、生まれて初めて人を殴ったんだ。子どもの頃だって、喧嘩で人を殴ったことなんかなかったんだけど、初めて殴ったんだ」
「……」
「でも、あんまりいいもんじゃないな。他人を殴るなんて」
ナナコはもう夫をどう捉えていいのか分からなかった。
リョーヘイの身体は、何か得体の知れない怒りで充満しており、それがいつ爆発するのか分からないようだった。
つづく