「おなかいっぱいたべたので、もう眠くなった。さあ、あなたのおへやへつれていって、きぬのねどこの用意をしてください。いっしょにねることにしましょう。」
お姫さまはこれをきいて泣きだしました。つめたいカエルのことをおもうと、身の毛もよだつほどでした。
グリム童話集1「カエルの王さま」より(相良守峯 訳/岩波少年文庫)
第二章 音
夏が過ぎる頃、それは起こった。
きっかけは些細なことだった。
その春に、二階の住人が引っ越して行ったのだ。
なんでも娘夫婦と一緒に住むという事だった。
今まで、ナナコたちの真上に住んでいたのは、初老に入りかけた夫婦者だった。アパートは、部屋を四角く壁で仕切って床で支えるプレハブ構造だったので、毎朝決まって、二階の台所からは、スリッパを使う、パタパタパタという忙しない足音が聞こえてきた。それを聞くとナナコは、「ああ、もう起きなくっちゃ……」などと思うのだった。
程なくして、新しい住人が引っ越して来た。入居後に挨拶にやって来たのは、地方から出てきたばかりで、近くの工場に勤めるという青年だった。きちんと引っ越し祝いのタオルを持参していた。背はあまり大きな方ではなかったが、がっしりとした体格だった。恥ずかしいのか、下を向き、「どうぞよろしくお願いします」とぼそぼそと喋った。
丁度その時、夕飯作りに忙しかったナナコは、「分からないことがあったら、何でも聞いてくださいね」と満面の笑顔で対応した。地方から上京して来てまだ日も浅く、何も分からないだろうから、親切にしなくっちゃと思っていた。
ナナコ自身も地方から単身、短大へ入学するために上京して来たときは、随分と心細い思いもしたものだ。それに、この地域は、ゴミの分別規則がやたらと細かかった。違反者がでると、すぐにこのアパートの住人だろうと疑いが掛かり、近所の人達から白い目で見られてしまう。
何も知らないポッと出の若者に、そんな洗礼を受けさせる訳にはいかなかった。何とか力になってやりたかった。
夫のリョーヘイが帰って来た時にも、二階の新しい住人のことを話すと、「今時、挨拶が出来るなんて、ちゃんとした若者だな」と感心していた。
つづく