「さあ、あなたのその金のお皿を、もっとこっちへよせてください。いっしょにたべられるように。」
お姫さまは、いわれたとおりにはしてやりましたが、いやいやなながらしたということは、はたからみてもよくわかりました。
グリム童話集1「カエルの王さま」より(相良守峯 訳/岩波少年文庫)
第三章 予兆
何かが音もなく足元を覆っていった。やがてそれは大地をも腐食させ、静かに崩れ去っていった―。
その頃のナナコの気持ちを表すとすると、そんな言葉がぴったりのような気がした。ナナコは為すすべもなく、気がつくと蟻地獄に嵌ったアリのようにただもがいていただけなのかもしれなかった。
翌日、仕事の帰りに病院へ寄ると言っていたリョーヘイが「ただいま」と言いながら、玄関に入ってきた。夕飯の支度を終え、居間でテレビを見ていたナナコは、「お帰り、どうだった?」と飛んできて、リョーヘイに尋ねた。
「うん、なんか薬もらった」と疲れた顔でリョーヘイは答えた。
「薬? 薬で治るの?」
ナナコは、俄かには信じられなかった。リョーヘイが不眠症に罹ってからもう随分経つ。そんな筋金入りの不眠症が、果たして薬などで治るものだろうか……? もっと深刻な診断をされると思っていたナナコは拍子抜けしてしまった。
そんなナナコの不信気な声にリョーヘイは、困った顔で、
「それが今は治るらしいよ。抗うつ剤って奴を貰った」と言った。
「えっ!? うつ病なの?」
ナナコは驚いて再び大声を出した。
夫の病は、不眠症からくるアルコールの問題だとばかり思っていたからだ。リョーヘイもナナコの大声に、動揺したらしく目をキョトキョト動かしながら、
「そうなんだって。どうやら俺は、うつ病らしいよ」
と不安気に言った。
うつ病か……。
もちろん耳にしたことはあるが、具体的にはそれがどんな病気なのか、ナナコには皆目分からなかった。ただイメージだけがあるだけで。それは、ひたすら暗くなる病❘というものだった。
「……」
しかし目の前のリョーヘイは、普通に話しもすれば、時には冗談さえ言う。暗くって仕方がない、ということはない。ただ、お酒さえ飲まなければいいのだ。お酒さえ飲まなければ……。
ナナコは、これをどう受け止めていいのか分からなくて、黙り込んでしまった。
そんなナナコを励ますように、リョーヘイが妙に明るい声で言った。
「ま、お医者さんにも行ったことだし、薬を飲めば大丈夫だよ」
「……」
「これでしばらく様子をみよう」
仕方なくナナコは頷いた。
「そうだね」
そうして二人は重苦しい空気を打ち破るかのように、急にきびきびと食卓を片付け、夕食の皿を並べ始めるのだった。
つづく